新・京極派

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zoom RSS うたの未来といふものはあるか 政治的汚染を除染して後の……

<<   作成日時 : 2017/05/10 17:05   >>

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平成29年2017年5月10日水曜日午後5時










 うたの未来への微かの僅かの絶望的の……希望……に、ついて

【返信】
t.k. さま
御母上のこと存じあげず、いつものことに失礼しました。
今、わたしオフ日でして、淡路マクドナルドでお茶中、今日でもお会いできますが、メールくださいませ。
ヤシマヒロシ

【着信】
>矢嶋博士さま
>お久しぶりです。
>お元気でお過ごしでしょうか?
>こちらに戻られておられるとことは矢嶋さんが下さりましたメールで知っておりましたのにご連絡できず申し訳ございませんでした。昨年に母が他界してから、さまざまな後始末のため一年余りごった返ししておりましたが、ようやくひと段落ついたところです。久し振りにお会いしてお話しできればと思います。よろしければご連絡下さりますようお願い申し上げます。
>
>追伸
>つい最近のこと、若い歌人のかたから風雅和歌集について書かれた古井由吉のエッセイのコピーを頂きました。その一部分の京極為兼についてのくだりが、とても興味深いものでしたのでしたので以下に少し引用いたします。
>
>以下引用。
>
>『しずみはつる入日のきはにあらわれぬかすめる山のなほ奥の峰
>
>吹きさゆる嵐のつての二声にまたはきこえぬあかつきの鐘
>
>もりうつる谷にひとすじ日影みえて峰も麓も松の夕風
>
>三首ともに私には詩の戦慄をもたらす。おもむろに及んで長く曳く戦慄である。光景と、その中にある心が残る。しかし歌そのものの姿は、まるで浮かばない。また読み返してみると、歌としては、言葉が余るのではないか。つまり叙述としてしかはたらいていない言葉があるということだ。叙述へ傾く歌はいきおい言葉が多くなる。三十一文字の枠におさめがたくなる。ところがあらわれとしては、三十一文字の枠が逆に長すぎる。詩のはたらきによっては満たしきれない、という結果になる。かりにこの三首を、どのようにしては知らないが、五七五に凝縮させたら、もっと凄みの際立った句になりはしないか。すでにそのような、詩のありようなのではないか。
>
>大井川はるかに見ゆる橋の上に行く人すごし雨の夕暮
>
>これは漢詩の、橋上暮雨の情趣だろうか。私にはすでに「猿蓑」の方角を思わせる。
>詩が歌の力、おそらく公的で宗教的な源をもつ呪力から次第に疎外されながら、精神化していく、その渡りのあたりを私はこの集のうちに見ようとする。精神は詩を長くする、と同時に、さらに純粋に詩たらんとする過激さからして、短くなろうとする。ふたつの方向が一言一句のうちにせめぎあう。短いほうへ赴くのがまず自然の成り行きなのだろうが、ぎりぎり結晶させて、さて歌になるかというと、やはり精神のけわしさがまさる。』
>古井由吉
>「読売新聞」1982
>
>以上引用おわり。
>
>このような問題意識を、わたしよりも三十歳も若い歌人がようやく持ってくださっていることに、歌の未来への僅かな希望を感じとともに、矢嶋さんが俳諧への道を踏み出されたことの必然と、羨望を覚えずにはおれません。
……平成29年2017年5月10日水曜日午後3時
………t.k.

写真は新京極派で
http://shinkyougoku.at.webry.info
日刊短歌
http://yasimahirosi.at.webry.info

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