新・京極派

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zoom RSS 【新情念論 11.】桔梗はどこに咲いてる?

<<   作成日時 : 2017/06/28 02:14   >>

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平成29年2017年6月28日水曜日
【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー11】

 桔梗はどこに咲いてる?

道端にキキョウが満開である。二つ三つ枯れた桔梗は清冽凛洌の灰色の薄絹ように茎に纏い、あと二十から三十の花がいまは盛りと青色の極みを開いている。小さな莟が奥に控えている。
さて、この桔梗は、わたしの頭蓋骨内脳の内の視覚野に移植されて咲いているか?(←デカルト『情念論』松果腺のドーム内宙空に)
いや、この桔梗は、ヤシマヒロシの目の前60センチメートルの時空間に、確実にヤシマヒロシの、

 外
 60センチメートルの距離の向こう側

に咲いている。
少なくともそのように在るように見える。

写真は新京極派で
http://shinkyougoku.at.webry.info
日刊短歌
http://yasimahirosi.at.webry.info


平成29年2017年6月25日日曜日
【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー10.】

 足裏はどこにある?

ある日、めまいしながらにかいだんを降りる。
足裏は階段のコンクリートの上を踏みしめて一段一段降りている。
この時、わがカンジはふわふわと羽根布団の上を歩いているかのようであった。
足裏は

 1 コンクリートの上を踏んでいる
 2 けっして羽根布団の上ではない

足裏のカンジをヤシマヒロシに伝えるのは脳の足裏触覚感圧力野である。であるわけは、羽根布団のふわふわ感などは、

  足裏表面↓
ーーーーーーーー
 コンクリート↑

の関係にある時、足裏から発せられるわけがないからである。感覚とは何か。触覚とは何か、触覚は、

1. どこで発生し
2. どこで感覚され
3. どこに認識され
4. どこに伝えられ
5. ヤシマヒロシは「触れている」「踏んでいる」

と「わかった」ようなつもりになっている?のか???
この?は永遠に取り去ること不可能であろう。

2.3.4.は完全に、

 形而上

のものであり、ヒトの科学力では一切検知、確認、撮影、現像、定着、保存、再生、開示できぬものごとに属するからである。

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【口絵写真は淡路マクド一階南面おおガラス窓午後6時今日】
平成29年2017年6月20日火曜日
【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー9.】

 ガリガリ君スイカ味はどこにある?

炎天下の午後1時、京阪枚方市駅前ファミマで「ガリガリ君スイカ味」を買う。75円という価格に感動する。一口噛みちぎってみてその舌触りのマイルドなのに感心する。氷が柔らかく舌のうえに崩れてゆく、氷のカチカチではないのだ。製法に秘訣あるにちがいない。これに対して井村屋の小豆バーは、非常に硬く凍ってゐて、最初の歯が立たないくらいのものが好ましい。少しづつ噛み崩して行きちいさい小豆のほのかの甘味を楽しむ。
ところで、味覚。である。
舌の味蕾という器官(細胞)がガリガリ君の冷たさをその味を受け止める。が、その、

 冷たさ
 甘さ

を、認識するのは【味蕾】そのものではない。あくまでも脳の内部の味覚野の働きである。

ここで、デカルトの「情念論」によれば、この味覚野がアナログ的に、ガリガリ君の1.冷たさ2.甘さを受動して、
味覚野そのものが、

 冷たく
 甘く

なってしまってゐる!・・・・ということになるが、デカルトの「情念論」の馬鹿馬鹿しさはこりゃどうだ!と叫びあげたいほどの荒唐無稽ぶりではないか。怒るで、シカシ(横山やすし)。

味覚野は冷たくも甘くもなっていない。
では、この冷たさ甘さを「感じた実体」はどこに立ってゐる?。
その実体は味覚野の上にも味蕾の上にも痕跡をとどめていない。
どこに立ってゐた?。矢嶋博士の近辺(ヤシマヒロシの身体表面からさほど遠くない時空)のあるところであろう。ところ。という表記さえもできないある、

 形而上

のあるところ(形而下の空間か時間かも特定できない)である。
かの、電柱は、

 形而上

に立ってゐる。これはもう、間違いない事実である。


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平成29年2017年6月18日日曜日
【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー8.】

 距離の中に置かれたメートル原器、と、それを見るという行為のヒトに及ぼしている
現象についての考察
 ーメートル原器の変容についてー


メートルというのはこのごろではデジタルで規定されたモノがあるらしい。アナログ的には【メートル原器】というものがかってあって、これが1メートルですよ。と、万国の基準になっていた。

さて、「1メートル」というのは目に見えるモノだろうか?。これが、目に見えないモノであるのだ。概念で1メートル原器を「見ると」なるほどそれは(そのモノの端から端を測れば)1メートルの長さをもっておるものに相違ないと思われるだろう。
が、
「新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー」の眼にはそれ(1メートル原器)は確実の大きさ長さをもってはいない。
それは、近づけば大きく見えるし、遠ざかれば小さくなって、やがて見えなくなるほどに小さくなってしまう、あやふやなモノであるの。
眼(角膜)を触れるほどまでをメートル原器に近づけてみたまえ。それは銀色(アンチモン合金色)の鈍く光った金属表面の荒野が目に見えるかぎり広がっているにすぎない世界である。
では、どの位置、時空にわが身体、眼球、脳内の視覚野、こころを置けばこの1メートル原器が、

 1メートル

の「長さ」に見える?。
答は、この世(形而下の)ではそれは、無い。のである。ヒトの眼には1メートルを見る能力は無い。形而上のみにそれは存在している。

ヒトの考え、考えること、感じ、感じること、のすべてが形而上のことに属する。←これは信じられないことであるが、真実である。電柱は形而上に立って(浮遊して)ゐる。

この地上において、ヒトがどのように移動しようとも、その見かけの大きさの変化しないものが、ただひとつあるが、それが、月である。赤道上、極点、海抜0メートル、エベレスト頂上、どこからでも、月の見かけの大きさは変わらない。ヒトが腕をいっぱいに伸ばして親指と人差し指に5円玉か50円玉を挟み、その穴を通して月を見る。その穴にスポリと入ってしまう大きさである。この場合でも月においてもそれは形而上の存在であることは変わらない。
月そのもの、ヒトそのものは形而下のモノそのものであるが、見るという行為から来るすべてのモノ、

 考え、感じ

が形而上のものであるからである。

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平成29年2017年6月15日木曜日
【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる? 7.】

 ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン
 アルベルト・ジャコメッティ
 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ


この三人は非常に似てゐる。
仕事をしながら、自分自身の非力を罵る・・・その罵り方がウィトゲンシュタインとジャコメッティはそっくりである。矢内原伊作『ジャコメッティとともに』(みすず書房)、ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタインー天才哲学者の思い出』(講談社現代文庫)。

ウィトゲンシュタインが寒村の小学校の教員、修道院の園丁をやり、第1次世界大戦時オーストリア軍に志願、東部戦線、南部戦線を転戦したこと。いわゆる、大学の哲学教授といわれるヤカラを骨の髄から軽蔑しきって生涯を貫いたこと。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホが牧師として炭鉱の町に赴任し貧しい炭坑夫に牧師の服を与え、じぶんは石炭袋をひっかぶって街を歩き、説教に臨み、教区から牧師職をクビにされたこと。

この三人が真の天才であったこと。赤裸々におのれのこころ根を曝して平気であったこと。一切の虚飾をおのれに被せなかったこと。徹底的に正直、謙遜、傲岸不遜であったこと。非常にいい顔をしていたこと。

ヨーロッパの知性の塊、芸術家であったこと。ヴィンセントヴァンゴッホ『書簡全集』(みすず書房)。
上の三部は全部、絶版になっているかも。悪書は良書を駆逐するので。

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平成29年2017年6月15日木曜日午前0時25分
【新情念論6ー電柱はどこに立ってゐる?ー 】

 ジャコメッティ

ジャコメッティはヒトの全身立像、胸像を作ってゐて、「どんどん小さくなってゆき、しまいには消えてなくなってしまう」現象に悩んだ末に「絶対に小さくしないぞ」という規則を立てた。・・・そうすると、像は、

 細長く細長くなっていった

と語っている。
ジャコメッティはヒトの像を、

 距離の彼方に浮かんでいる

現実そのもの、として捉えたかったのだ。ジャコメッティは、

 距離

を見ていた、のだ。古典的遠近法(デカルト的、すべての凡庸の絵描き、彫刻家)では、現実の中に浮かぶヒト、という存在を描けない、刻めない、ということを、認識した果ての行為だったのだ。

しかし、なんという美しさだ!ジャコメッティのすべての鉛筆デッサン、油絵、ブロンズ、の!!。すべての!!!。










平成29年2017年6月14日水曜日午前2時08分

 淡路マクドまえの月

午前1時である。淡路マクドのコーヒーの合間に外にでてエコーを吸う。見上げれば南空の高高度超遠距離に月が浮いて、ひかり輝いてゐるのが、見えた。

デカルトよ。
この月は、お前の頭蓋骨のなかの脳の中の松果腺の真ん中に浮かんだか。

デカルト=浮かんでゐるとも。
ヤシマ=では、お前の松果腺というのは途方もなく大きいぞ。地球淡路マクドのまえの地上から月までの距離があるのだ。少なくともな。昼間は太陽までの距離を容れるほどのなぁ。
デカルト=えっ、そんなに大きいの?
ヤシマ=なに、ぬかしとるんじゃい。お前の『情念論』の中の挿し絵を見るとそうなるでぇ。
デカルト=しかし・・・そんな大きなモノは挿し絵にも出来んぞ。
ヤシマ=しかり。然り。お前の、あの挿し絵。あの挿し絵を掲載させたお前の視覚に関する考察には、

 距離

という要素がまったく入っていない。これがデカルトよ、お前の致命的欠落であったな。
月は松果腺の中には浮かんでいない。
月は遥かかなたの距離の時空に浮かんでゐる。
それがどうして、見えているのか?・・・それが問題じゃ。人は(動物一般は)モノを見ているのではない。距離を見ているのだ。デカルトよ、お前の考察には、

 距離を見ている

という、この根源的在り方、がすっかりごっそりまるごと、欠落しておった。これは致命的欠陥である。
ちなみに、月の見かけ上の大きさをいえば、日本の五円玉、五十円玉を親指と、人差し指で挟み、腕をいっぱいに伸ばして見たその穴に、すっぽりと入る。それほどの、

 小ささ

のモノである。

 距離

というのは偉大なモノではないか。
距離というのは時間のことでもある。空間のことでもある。デカルトよ、お前の『情念論』は根本的に批判、推敲、完全否定、書き換えなければなるまい。よ。
デカルト=・・・・・・゜¨ゞゞ。
ヤシマ=メートル原器の大きさの変化。ジャコメッティの肖像彫刻、肖像画がなにゆえにかのように細長く、小さくなっていったかの必然、は次に明らかにされる。

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