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zoom RSS 【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー16.】在るように見えた。と 在るように見えたと思われる。

<<   作成日時 : 2017/07/01 16:38   >>

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平成29年2017年7月1日土曜日
【新情念論ー電柱はどこに立ってゐる?ー16.】

在るように見えた
  と
<在るように見えた>と思われる

辻サン
【ヤシマヒロシ】
わが外に
3メートルの距離に
在るように見えた
【ツジカズユキ】
わが思考には
<わが外に
3メートルの距離に
在るように見えた>
と思われる。

辻サン
1. わが思考には
2. と思われる
この1.と2.なのですが、この1.と2. の実体というものは、脳の表面あるいは脳の内部のある表面上に【目に確認できる、写真に定着記録できる】モノとしては存在していませんね。
この1.2.もまた、わが外のどこかに浮かび消えた。1.2.は、
 形而上のモノ
としか考えられません。
電柱はどこに立ってゐる?
の結論なのですが、電柱は、
 形而上
に立っております。

 世界は人の意志の表象である
 ショウペンハウエル
↑これは、本当ことかもしれませんぜ。
矢嶋博士

【ツジカズユキからのメール】
>矢嶋博士さま

>矢嶋さんが以下にお書きのこと、とても興味深く拝読させていただきました。
>
>外にあるように見える
>外にあるように感じる
>
>その日、次男の言葉を反芻しながら玄関を出ると、幅3メートルの路地の向こうに電柱が立ってゐる。その電柱はやはり、
>
>わが外に
>3メートルの距離に
>在るように見えた。

>わたしにとって思考とは純粋と同義です。思考が純粋とは、思考とはいかなる内容も対象も捨象する抽象である、ということです。矢嶋さんがお書きのとうり、これだけでは具体的で真なるものではありえません。思考が具体的で真なるものであるためには思考の外が必要です。純粋な思考にとっては異他的な外部、それが内容であり、対象なのです。その内容や対象が、思考自身によってもたらされたとするにせよ、或いは、思考とは別のもうひとつの<真なるもの>つまり物自体によってもたらされたとするにせよ、内容や対象は外部なのです。そうであれば矢嶋さんが、
>
>わが外に
>3メートルの距離に
>在るように見えた。
>
>とお書きの「見る」とはどういうことなのでしょう?
>わたしにとってこのことは、
>
>わが思考には
><わが外に
>3メートルの距離に
>在るように見えた>
>と思われる。
>
>と同義です。
>つまり、「見る」とは、「超える」かつ「反省する」、と同じことなのです。思考が自らを超えるためために必要なもの、思考が自らを思考であると反省するために必要なもの、それが「距離」なのです。このように思考は思考自身を超えてなおも思考であろうとします。わたしは「見る」の真理のうちに、このような具体的な思考の行為を「見たい」のです。

>辻和之

写真は新京極派で
http://shinkyougoku.at.webry.info
日刊短歌
http://yasimahirosi.at.webry.info

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